私たちの物語
─ 本会の歴史概略 その1 ─
本会の起こりは、全て神の御業の始まりがそうであったように慎ましものでした。1575年、イタリア中部の町パルマで、一人の少女が路上に捨てられて泣いていました。そこを通りかかった教区司祭のヨハネ・ヴァイラ師は、この小さな子供を見捨てておくことができず、一人の未亡人の手に託しました。こうして、パルマ市でキリスト教的慈善事業「救いを必要とする子供達の家」が始まったのですが、それはまだ「修道会」ではありませんでした。施設創立から13年後、一人の女性がこの慈善グループに教師として加わります。彼女はマッダレーナ・モリナリといい、その献身的な活動と、神により照らしを受けた奉献の望みによって、徐々にグループを奉献生活へと方向付けて行きました。その当時は、活動する女子修道会が正式に教会から認可されなかった時代で、会はファルネーゼ公爵の保護のもと、教育使徒職の旗印であった、殉教者聖女ウルスラを保護者として仰ぎます。霊的にはイエズス会司祭による指導により、イグナチオ的霊性を持つ女子の活動修道会の先駆者として、その道を拓いて行きます。
1623年、初代院長として正式に就任したビクトリア・マージの時代に、イエズス会司祭たちの助けによる会憲が刊行され、会は更に堅固な土台を得ました。貧しい孤児たちの施設から寄宿学校へと事業は少しずつ発展し、その教育的なカリスマがパルマで花開きはじめます。会員たちのキリストへの全き信頼と、全ての人々に対しての愛の奉仕は、「一致と言い表し得ないほどの快活さ」となってあふれ出し、その特徴が人々の心をひきつけます。それは多くの青年女子にその時代全く新しい女性の生き方であった、使徒的奉仕の道へと歩ませるきっかけとなってゆきます。
修道会認可とさらなる広がりへ
─ 本会の歴史概略 その2 ─
パルマのウルスラ会は、世俗権力からの介入に根気強く抵抗しながらも、使徒的活動を世紀に渡り展開してゆきました。1886年、総長に選出されたマードレ・マリア・ルクレチア・ジレリ(1839-1923 現在列福調査中)は、時のしるしを理解し、時が熟したのを見て取り、会が正式に教皇直属の修道会として認可されるよう道筋を整えはじめました。彼女はまた、創立の起源に立ち返り、本会固有のカリスマを汲み取りながら、新しい時代に適応するよう会憲を整え、会員たちを導きました。 さらに、マードレ・ルクレチア・ジレリは、聖フランシスコ・ザビエルの聖遺物の前で祈ることで、海の向こうへの新しい宣教の夢を本会にもたらし、それは彼女の死後四年をへて、現実のものとなります。このように、多大な影響を会に与え、神のより大いなる栄光のために献身したマード・レジレリは第二の創立者とみなされています。
そして日本へ
─ 本会の歴史概略 その3 ─
1926年、時の総長マードレ・アグネス・チョイヤの時代、ウルスラ会は初めて海を越えて中国での宣教に赴きました。シスター達はその教育的カリスマを中国でも発揮し、1951年政治的理由により追放を受けるまで、学校や診療所で多くの愛の業による事業を展開し、それに感化された数々の改宗者を輩出しました。その中には、現在列福調査中の本会のシスター、マードレ・アニエーゼ史がいます。
ウルスラ会の来日は、中国を追われた宣教女たちのミッシヨンへの熱意によるものでした。ほとんど空の手で中国を出た彼女たちは、イタリアへ帰国することを一人も望まず、オーストラリアやマカオ、日本へと、それぞれに分かれて新たな宣教地へと旅立っていったのです。1952年2月5日、最初のシスター達が3名、呉港に到着しました。奇しくもその日は、日本26聖人殉教者の祝日でした。数日後の16日、さらに三名が着き、6名のシスター達は、福岡の深堀司教さまのお世話で、全く未知の土地、福岡でミッションを始めたのです。それは多くの方々の支えと、貧しさの中で御摂理に信頼する、シスター達の深い信仰によるものでした。